煌はその性格を移したように真直ぐに勢いよく、校舎の最上階にある廊下を、突き当たりの教室目指して突き進んでいた。
 数か月前には何処か躊躇いのあったその歩調も、今は既に迷い無い。周囲の視線などはもう気にする余裕も必要もなかった。只でさえ兄が中央霊術院初等部始まって以来の逸材との誉れ高い阿散井煉であるがために、入学した当初から煌は注目の的だった。そして煌自身も、まだ幼いながら斬魄刀を手にしている事実からその才能の片鱗を窺わせている。加えて母親譲りの気品ある顔立ちは、将来間違いなく花開く美少女故、周囲が見惚れる程の目の保養なのだ――それは煌が黙っていればの話。
  一言でも言葉を口にすれば、憂いある深窓の令嬢ではなく破天荒なお転婆娘であると看破されること間違いないのだが。
 そうして既に「阿散井煉」と同じ程に有名になっている「阿散井煌」は、最下級生であるにもかかわらず最高学年の領域を怯むことなく歩いている。それは、速く教室に辿り着かなければ大好きな兄とすれ違いになってしまうことを恐れるあまりの行動だった。
 再来週から始まる学期末試験のため、今日から試験終了日まで学生たちは午前で授業が終わることになっている。各自の自主性を重んじる中央霊術院では、授業と同等、もしくはそれ以上に各々の独学、予習、復習を重んじる。それは言われたことを学ぶだけにならないよう、己で考え、己で実践する為のこれも一つの授業でもある。
 けれど煌にとっては、午前中で終わる授業はつまり兄の煉と一緒にいられる時間が多くなるということだ。煌にとっては初めての学期末試験も、試験自体より煉と一緒に帰ることができるという事実の方が重要だ。うきうきと煉の教室まで辿りつき、廊下側の窓から教室内を覗き込んだその瞬間、煌の形の良い眉が潜められた。
「わあ、そうか、わかった!」
 甲高い声がする。机に座る煉の前の席で、後ろを向いて――つまり煉と相対しながらそう言った少女と、一斉に同意する周囲を取り囲んだ少女たちの声。その数ざっと5人。
「すごい、先生よりわかりやすい!」
「ずっとここわからなかったのー!」
「ねえ阿散井君、こっちの問題教えて? 義骸技術の――」
 わいわいと騒ぎだす少女たちの真中に煉は居る。それに丁寧に答えている煉の声はいつもと変わらない、煌の大好きな優しい声だ。
 その声が自分以外の為に発せられている、その事実に一気に煌の機嫌は悪くなった。
 煌が覗き込んでいる窓は教室の後ろ側で、煉の後ろ姿しか見えない。今煉はどんな顔をしているのだろうと、そう考えた煌の表情は更に険を帯びていく。
「ねえ、阿散井君――お願いがあるんだけど」
 12歳であっても女は女だ。充分に効果を期待した上で少女は上目遣いで甘えた声を出す。その声に苛々している煌の前で、少女は「明日、休みでしょ? もしよかったら、私の勉強見てくれないかな?」と甘ったるい声で言った。
 途端、煌の目が丸くなり、周囲の少女が私も私もと騒ぎ出す。その喧騒の中で煉一人が普段と変わらない穏やかな表情で頷いた。
「別に予定はないから――」
「兄さま! 一緒に帰ろうっ!!」
 勢いよくがらりと教室の扉を開けると、6人の12個の目が一斉に煌を見据えた。それに怯むことなく煌は挑戦的に――勿論5人の少女たちに――視線を向ける。
「母さまが待ってるよ、早く帰ろう!」
 つかつかと煉の席へと歩いて煉の腕を掴んで引張る煌の特攻に、周囲の少女たちも我に返り「明日、校門に九時! それから私の家に来て勉強しようっ?」と慌てて念を押す。それにむっとして煌が言い返すよりも先に「うん、わかった」と煉が言った。
「兄さま!?」
「ん? どうしたの、帰るんだろ?――それじゃ、明日」
「うん! 待ってるから、阿散井君!!」
 きゃー、と騒ぐ少女たちを背に、煉は煌と手を繋いで教室をでる。廊下を歩きながら妙に静かな煌を見下ろして、あまりにも不機嫌な煌の表情に驚き煉は足を止めた。
「どうしたの? 何か怒ってる?」
「だって! 明日、あの人たちの勉強見るって!」
「うん、明日は別に予定ないから。あの子たち、今回成績悪いと補習になっちゃうんだって。同級生だし、僕で役に立つならと思って」
「煌だって兄さまに勉強見て欲しかったの!」
「煌なら大丈夫だよ。昨日見たのも問題に間違いなかったじゃないか。逆に今の授業は煌にとって易しすぎるのかもしれないね」
「そっ、それでも初めての試験だもん! 不安だもん! 怖いもん!!」
 その心臓の強さに定評のある煌の口からあまりにも似つかわしくない単語が出て一瞬煉は不思議そうな表情を浮かべたが、深く問いただすことなく「じゃあ」と言葉を続ける。
「そうか、それならこれから家に帰って直ぐ――」
「違うの! 今日も明日も明後日もずっと見て欲しいの!!」
「うーん、明日はあの子たちの勉強見るから、煌の勉強を見るのは午後からでいい? なるべくすぐ帰って来るから、それから一緒に」
「駄目なの、ずっと見て欲しいの! あの人たちは自分ですればいいじゃない! 大体六年生にもなって自分でお勉強できないなんて、そんなのただ頭悪いだけじゃない!」
「そんなこと言っちゃだめだよ。事情があって勉強に身が入らなかっただけだよ。ちゃんと出来る子たちなんだから」
「それならあの人たち、嘘吐いてるんだよ! 兄さまと一緒にお勉強したくて、だから成績悪いとか補習だとか嘘吐いてるんだ! 絶対そうなんだから、あんな約束なしにして!」
 地団駄を踏む煌の言葉に、煉は身を屈め、自分よりも下方にある煌の紫色の瞳に視線を会わせ、諌めるように煌を見詰めた。
「煌、何も知らないのに人に嘘吐きなんて言うのは間違ってる。それに煌のそれは我儘っていうんだよ? 僕が先に約束したのは煌じゃない、あの子たちだ」
「でも、煌は……っ」
「煌」
 煉の声が厳しいものへと変わり、煌はぐっと言葉を呑みこんだ。その煌の瞳にみるみる涙がたまっていく。感情を素直に表に出す煌は、怒るのも哀しむのも一気に、そして―― 一瞬で直ぐに爆発する。
「兄さまの莫迦っ! 莫迦莫迦、嫌い嫌い大っ嫌い!! 兄さまなんて大っ嫌いっ!!」
 繋いでいた手を振り払って、煌は声を上げて泣きながら走った。途中、すれ違う生徒たちがその速さと煌の泣き声に驚いて振り返るが、それを気にする心の余裕はなく、そして追いかけて来ない煉に更に悲しくなりながら、最後まで勢いが衰えることなく自宅まで走り通した。






 夕飯時も煌は表情を強張らせたまま煉と口をきかず、煉もそんな煌に対して何も言わず、何事もなかったかのように物静かに食事をしていた。そんな煉の様子が煌には悔しくもあり悲しくもある。
 自分が我儘だったと今では煌も反省している。けれど、煉が自分よりも同級生の肩を持ったことが嫌だったのだ。自分よりも彼女らを優先したことが悔しかった。自分にとっては兄が何よりも優先させることだというのに、兄にとってはそうではないということが酷く悔しくて哀しかった。そう、もし自分が同じ立場だったら――先に友達と約束をしていた後に兄に何処かへ行こうと誘われたなら、煌は迷わず兄を取る。
 いつもならば美味しい母の手料理も今日は何だか砂を噛んでいるように味気ない。早々に箸を置き立ち上がると、「何かあったのか、煌」とルキアが心配そうに声をかけた。
「何もないよ。ちょっと疲れただけなの。もう先に寝るね。父さまが帰ってきたらお休みなさいって伝えてね」
「煌?」
 引き止めようとしたルキアに向かい、煉が「母さん」と呼び掛けた。煉へと振り向くルキアの姿を視界の隅に見ながら、煌は自分の部屋へと走っていく。背後で煉が母に何かを言ったようだったが、それは煌にはもう聞こえなかった。
 




 まんじりともせずに布団の中で寝位置を変えていた煌は、暗闇の中で時計の針を見、その針が日付が変わったことを示しているのを確認してから、起き上り音を立てないように部屋の扉を少しだけ開く。
 顔だけ出して隣の部屋を見ると、明かりの消えた廊下に、煉の部屋の扉から細い光が漏れているのが見えた。まだ煉が起きている証拠だ。いつもならば確実に就寝しているこの時間まで煉が起きている理由は、恐らく明日彼女たちに勉強を教える所為なのだろう。彼女たちがわかりやすいように要点を纏めているのか、資料を作っているのか。
 何故ただの同級生の彼女たちにそこまでしてあげるのか。そこでふと煌はそれに思い至って身体を硬直させた。
 ――もしあの中に、兄さまの好きな女の人が居たら。
 昼間の、煉の周囲にいた少女たちの顔を思い出す。制服なので着ている物は皆同じだが、どの少女たちも念入りに手入れされた髪から、他の少女たちと明らかに違う「自尊心」のようなものが見えた。自分の容姿に自信があるというその自尊心が。
 やわらかく波打つ栗色の髪の少女。丁寧に梳られた髪が腰まである少女。複雑な編み込みを施した少女。縦に巻かれた豪奢な金髪の少女。肩で切り揃えられた絹のような髪が印象的な少女。
 あの中の誰が煉の想い人なのだろう。もしかしたら既に付き合っているのかもしれない。煉の中を占める割合は、もう家族よりもその少女の比率が多いのかもしれない。
 開いた扉をそっと閉める。零れそうになる嗚咽を聞かれない為に。
 大好きな兄が離れて行ってしまうその事実に、煌は布団の中で声を殺して泣き続けた。





 明け方近くまで眠れなかった煌が起き出したのは、9時を5分ほど過ぎていた。階下に向かう途中に煉の部屋をのぞくと、昨日教室を出る間際に「明日9時、校門で」と言っていた少女の言葉通り、煉の姿はない。
 塞ぎこみながら一階に行くと、ルキアがやや厳しい顔付で「寝坊だぞ、煌」と怖い声を出した。
「お休みの日でも8時までに起きる約束だろう」
「ごめんなさい……」
 しょんぼりと謝ると、ルキアは小さく笑い煌の頭を撫でる。
「今、ご飯作るからな。父さまも昨日お仕事で遅かったからまだ寝ているんだ。あんまり怒れないな、これじゃ」
「……兄さまは?」
「ん? 煉はさっき出かけたぞ。何でも同級生の子たちに会いに行くとかで……」
 人気者だな、と何も知らずに笑うルキアに、煌はもしかしたら、と藁にもすがる思いでいた願いが叶わなかったことに落胆して肩を落とした。
 もしかしたら、彼女たちよりも自分と一緒にいてくれるのではないかと。
 けれどそんなこともなく、煉は煌を置いて少女たちの元へと行ってしまった。昨日、煌があんな風に――「大っ嫌い!」と絶叫して煉の手を振り解いてから、一言も口をきいていない状態で。
 ルキアが用意してくれた朝食を半ば無理矢理口に押し込み、もそもそと牛乳を飲んでいる煌の耳に、玄関の開く音がした。え、と顔を上げるとそこに煉の顔がある。
「お帰り」
「ただいま」
 ルキアと挨拶を交わし、煉はごく自然に煌の前に座った。煌は壁の時計に目をやり、目の前に座る煉を呆然と見る。まだ時間は9時30分だ。
「おはよう、煌」
「おはよう、兄さま。……って、あれ? 何で?」
「何でって何?」
 いつも通り――否、ほんの少しだけ悪戯気味に煉が笑っている。それに目を白黒させながら、煌は「だって」と口籠った。
「だって、今日、9時から……あの人たちのお勉強、見るんでしょう」
「ん? もう見て来たよ」
「へ?」
 唖然とする煌に、煉はくすくすと笑いだした。吃驚顔の煌が楽しいらしい。
「試験範囲の要点を纏めた綴りを渡して来たよ。教科書よりも詳しい、参考書よりも解りやすい僕特製の秘密の書。あれさえ読めば誰でも成績上位者になれる」
 だから心配しないで大丈夫、と煉は煌の頭を撫でた。
「――でも、だって……」
 遅くまで灯っていた灯りは。
 ――5人分の綴りを作っていた所為なのか。
「だから今日は1日空いてるよ。ずっと煌の勉強を見ようね」
「……兄さま」
 椅子から立ち上がり、涙声で煉に勢いよく抱きつくと、煉はぽんぽんと煌の背中を叩いてくれた。それから、煌の耳にだけ聞こえるような小さな声で、「だからね」と囁く。
「大っ嫌い、っていうのは取り消して?」
 そこにふざけた声音は全くなく――奥に切なそうな響きを持った声だったが、既に泣きじゃくっている煌にはその響きを悟ることなく、ぶんぶんと大きく首を縦に振る。
「――大好き! 煌は兄さまが大好きだよっ! 世界中で一番大好きっ!!」
「……よかった」
 安堵と――煌が気付かない程の僅かに苦みの入った笑顔で、兄が妹にする抱擁、けれど微かにそれよりも強く抱きしめながら、煉は笑う。
「僕も煌が大好きだよ。存在するすべての何よりも」






 急いで朝食を終え――煉が帰って来たとたんに美味しくなった朝食を勢い良く全て平らげ、先に煌の部屋で待っていると2階に上がった煉を追って自室の部屋の扉を「じゃあね、煌、鬼道を教えて欲しいなあっ!」とうきうきと開けた煌の前で――
 煉は眠っていた。
 煌の寝台の端に横になり、完全に寝息を立てている。これほど無防備な煉を見ることは珍しい。
 恐らく、ほんの少しと横になった途端に、抗いようもなく睡魔に襲われたのだろう。
 昨日、遅くまで点いていた灯り。
 全教科、試験範囲ともなれば相当な量の筈だ。それを5人分。手書きで作ったとなれば――
「ごめんね、兄さま」
 自分の我儘の所為で無理をさせてしまった。
 音を立てないように部屋の扉を閉め、眠る煉の顔を覗き込む。全く起きる気配のない煉の前に、煌は身体を滑り込ませた。
 最近は一緒に寝てくれることも少なくなった。それを煌が淋しく思っている事を煉は知っているのだろうか。
「お勉強は起きてからでいいや。煌も眠いし」
 えいとしがみつくと、「ん……」と小さく声を上げて煉が煌を抱きしめた。すっぽりと煉の腕の中に収まって、煌は満足そうに煉の胸に顔をすりよせる。
 ――すぐに煌も眠りに落ちた。














777,777キリ番を踏んでくださった、まーしゃんさまからのリクエスト「阿散井一家で、煉がもてもてでヤキモチヲ焼く煌」ですv
まーしゃんさま、リクエストありがとうございます!
コメディタッチではなくちょっとシリアス路線になってしまいました。想像していたものと違っていたらごめんなさいいいい…!

煌に「大ッ嫌い」と言われて実はめちゃくちゃ凹んでいた煉のお話(笑)