護廷十三隊を退役して現在は専業主婦になっているルキアは、いつものように二人の子供と夫のために夕食の支度をしていた。
以前は随分危なっかしい手付きだった食事の支度も、今ではもう慣れたもので要領良く下ごしらえを済ませていく。
その、リズミカルに木のまな板を叩く包丁の音が途切れたのは、まだ開くはずのない玄関の扉の音が開いた所為だった。
包丁を置き廊下に出、訝しげに玄関に目を向けたルキアは思わず息を呑んだ。
「――煌!?」
声をあげ、駆け寄る――ルキアの目の前に居るのは、制服を泥だらけにして、唇の端に血を滲ませ、肘や膝に擦り傷を作って俯いている娘の姿だった。
「どうした、何があった?」
小さな身体の両肩を掴んで問い詰めるルキアの目を見ずに、煌は「ころんだの」と小さく呟いた。泣き出すのを堪えている、震える声――ルキアは「そんな訳ないだろう」と煌に触れる手に力を込めた。
「お母さんにちゃんと話してくれ。何があったのかきちんと教えてくれないか」
「……本当にころんだだけなの」
だいじょうぶだから、と早口で言って、煌はぱっと走り出した。煌の様子に動揺していたルキアは、一瞬反応が遅れ煌を引き止めることができず、煌はそのまま自分の部屋に飛び込んでしまった。かちりと鍵を回す音がする。
「煌! 煌、出てきなさい、お母さんにお話ししてくれないか」
暫く名前を呼んでも出てくる様子はない。途方に暮れていると、再び玄関の開く音がした。
「お母さん? 如何したの?」
「ああ、煉……」
ほっとしたようにルキアは長男の名前を呼んだ。12歳になる煉は、煌と色違いの制服を着、教科書を腕に抱えている。
「煌は帰ってる? 煌の教室に寄ったら、先に帰ったみたいだって煌の友達が言ってたから。気になって僕も帰ってきちゃったんだけれど」
「それが……」
煌の様子を耳にして、煉の表情が曇った。暫く思案した後、ルキアに向かって「僕が聞いてみるから」と頷いて見せる。
煌の、煉への懐き様は相当なもので、煉が聞けば事の次第も解るかもしれないとルキアは「そうだな、任せてもいいか?」と煉の頭を撫でる。
「お母さんはおやつ作ってもらってもいい? 煌の好きなもの」
「ああ、ぜんざいがあるからな。いつでも食べられるようにしておくから」
頼んだぞ、ともう一度頭を撫でると煉はふわりと笑った。歳を重ねても尚、煉はその表情だけ見れば恋次とそっくりだ。――性格は全く正反対だが。
ルキアが台所に向かうのを見送って、煉は煌の部屋の扉を叩き、「煌」と名前を呼んだ。
もう一時間前のことだったろうか。もしかしたら二、三時間は経っているのかもしれない。時間の経過は曖昧で、けれどその時の記憶は鮮やかに脳裏に残っている。怒りの記憶――悔しさの記憶。
その時、煌は校庭の端で同じ級の仲の良い数人の友だちと遊んでいた。ここに居るのは中央霊術院の小等部に入学が認められた才のある子供たちばかりとは言え、普段は普通の子供たちだ。年相応に遊ぶことは当然のことだろう。
校庭の真ん中は上級生が陣取っている。自然、煌たち最年少組は校庭の端で遊ぶことになったのだが、その時煌の耳に「煉の野郎」という聞き捨てならない言葉が飛び込んできた。
「きらちゃん? どうしたの?」
「ん、さきに行っていてくれる? ちょっと行くところがあるの」
煌のそのぎこちない笑顔に、まだ6歳の少女たちは気付くことができなかった。特に不審がることなく「うん、わかった」と無邪気に手を振って先を歩いていく。その友だちの背中を見送って、煌は木々に囲まれたその場所へと分け入って行った。
一歩踏み出すごとに兄に対しての悪口雑言が耳に入る。その愛らしい顔を今は不快感から厳しく引き締め、煌は最後の木の枝を勢いよく腕で払い除けた。その音に驚いたのか、一斉に振り向くその数は二つ。
「何だよ?」
睨みつけるその少年の歳は、恐らく兄と同じくらいだろう。その上級生を、物怖じすることなく煌は睨みつける。
「とりけせ」
「はあ?」
「兄さまをぶじょくした、いままでのことばすべてとりけせ!」
「何だこいつ」
一人がもう一人を振り返ると、「阿散井の妹じゃねえか?」と返事が返る。「そういや今年入学したって聞いてたな」とその言葉を振り返った少年が受けた。
「妹も生意気だな、あいつに劣らず」
馬鹿にしたその口ぶりに煌はかっとなった。元々人より沸点は低い。
「兄さまのわるくちをいうな!」
「悪口? 何がだよ? 事実じゃねえか、あいつが腰抜けなのは」
「兄さまはこしぬけなんかじゃない!」
「腰抜け腰抜け。斬魄刀さえ持てない腑抜け。鬼道だの研究だのばっかりでよ、運動神経ゼロの根暗なガリ勉。将来は十二番隊だなー」
「とりけせ、ばかっ!」
悔しさのあまり掴みかかった煌を、少年は「何だよお前!」と突き飛ばした。6歳と12歳ではあまりにも体格が違う。それでも煌はすぐに立ち上がり「兄さまにあやまれ!」と再び掴みかかった。
「んだよ、うぜー」
面倒くさそうに少年が煌を振り払う。今度は頭から昏倒したが、煌はそれでも立ち上がり「とりけせ!」と少年の着物を掴んで締め上げた。
「うるせえな!」
振り上げた少年の手の肘が煌の頬に当たった。途端、煌の口の中に鉄の味が広がる。思わず怯んだその隙に、もう一度、容赦なく突き飛ばされて煌は地面に倒れこんだ。勢いよく地面に擦った肘と膝は鋭い痛みを煌に伝える。
「兄貴も兄貴なら妹も妹だな。兄貴は腑抜けで妹は馬鹿。よく似た兄妹だよな、ホント」
大きな笑い声、紛れもない嘲笑を倒れた煌に浴びせかけながら、少年二人はその場を立ち去った。
汚れた制服。
擦り傷だらけの両手足。
切ってしまった口の中、濃い血の味。
そのどれよりも哀しくて悔しかったのは、煉を侮辱されたのに何も出来なかった自分にだ。
大切な兄を、大好きな兄を、侮辱され、誤解され、罵倒されたというのに、何も出来ずに無様に突き飛ばされた。
確かに煉は斬魄刀を持っていない。それでもその鬼道の能力はずば抜けているし、教師たちも煉の博識さには一目置いている。誰よりも自慢の兄なのだ、誰よりも大好きな兄なのに。
地面に倒れたまま腕に顔を突っ伏して、煌は嗚咽を溢した。
煌の部屋の扉を叩いて名前を呼ぶ。
「煌。ここを開けて」
暫く待っても返事はなく、けれど煉は辛抱強く待ち続ける。
「煌、お願いだからここを開けて」
何度目かの呼びかけに「お願い」という単語を入れると、ようやく鍵の外れる音がした。昔から、煌は煉の「お願い」にはきちんと答えてくれる――それをしないと、煉が煌の「お願い」を聞いてくれないと思っている所為なのだろう。
細く開いた扉の向こうに、泥だらけの制服のまま、俯いた煌の姿がある。その唇に滲む血と、僅かにのぞく肘に見える擦り傷を目にして煉の表情が一瞬消えた。冷たい氷のような無表情――それは顔立ちは全く違うというのに、何処か彼の伯父を思い起こさせる表情だった。
けれどその表情はすぐに消し、いつもの優しい兄の表情で煉はするりと煌の部屋へと滑り込んだ。煌も止めることなく、俯いたまま立っている。
「如何したの、煌」
優しく声をかけても、煌は俯いたまま何も言わない。数十秒後、何も言わない煌に向かって、煉は「わかった」と静かに言った。
見放された、と思ったのだろう、弾かれたように顔を上げた煌は、目の前に煉が居ることに驚いた。近付いた気配は全く感じなかった。
煉がそっと煌を抱きしめる。
「言いたくなかったら言わなくていいんだ。煌が言いたくないならもう聞かない」
でも怪我したところはきちんと手当てしようね、と頭を撫でられて、――煌は堪え切れなくなって涙を落した。ひとつ落としてしまえば、もう堪え切れない。堰を切ったように声をあげて泣き出す煌を、煉は優しく抱きしめ――「もう大丈夫だから、心配しないで。お前が泣くようなことは、もう起きないよ」と耳元に囁いて、煉は泣き続ける煌の頭を優しく撫で続けた。
校庭の隅の、樹々を分け入ったその場所は、二人の少年の堪り場だった。
この中央霊術院の小等部に入学を許されたということは、それだけで高い霊力の存在を認められたことに他ならない。そしてそれは、人によっては――自分が選ばれた、他の者たちとは違うという歪んだ選民思想を生むことになる。
そうならないよう教師たちも教育はしている。それでもその中からやはり如何しても、幾人かの誤った考えを持つ者が出るのを止める事が出来ない。
「――の試験は絶対……を贔屓した内容だったよな」
「そうそう! 思いっきり偏ってたよな! あからさまだっての」
「反抗しない大人しい奴らばっかり点数やってよ、はっきり正しいこという俺たちには点くれないなんてよ、絶対おかしいって」
「あいつらより絶対俺らの方が強いってのに、ったく馬鹿先公どもめ」
今日も日頃の憤懣をだらだらと口にし合う少年たちの背後で草が揺れた。それは、昨日も同じ時間に起きた出来事で、少年たちは振り向きざま「ったくしつこい餓鬼だな、もっと痛い目にあいてえのかよ」と口汚く罵り――その場に居た少年の雰囲気に思わず息を呑んだ。
「―― 一応確認するけれど」
普段と変わらない冷静な声。教室で授業を受けている時と同じ落ち着いた表情。
けれど、その身を包む雰囲気は――まるで違う。
「昨日、僕の妹に怪我をさせたのは君たち?」
疑問形で口にされた言葉、それは確認だった。
昨夜の内に、煉は煌の仲の良い友達に事の次第を尋ねていたのだ。煌と仲の良いその少女は、今日の昼に校庭の隅のある場所で煌と別れたこと、そしてそのまま煌は教室に戻らず帰宅してしまったことを煉に話してくれた。
翌日校内でさり気なく情報を集めると、その場所でたむろする少年二人のことはすぐに分かった。大した労もかけずにそこに行き着いたのは、この少年二人の素行が乱暴で周囲から疎まれていたことも理由の一つだったが、煉が入学した時から築いてきた人脈と、教師にも一目置かれている優等生という顔が一番大きな理由だろう。
そして煉は昨日と同じ時間に、一人でその場所に現れた。
自らが侮っていた煉の、その気配に呑まれた自分が許せなかったのだろう、少年は「それがどうしたよ?」と薄く笑った。相手は一人、しかも剣を持っているところすら見たことのない、見かけ倒しの腰抜けだ。
「くそ生意気な餓鬼だったぜ。きちんと躾けろよ、ばーか」
「『兄さまは腰抜けなんかじゃない!』だと。本当に馬鹿。始末に負えねー。救いようがない馬鹿?」
「お前は腰抜けだよな、優等生の阿散井煉?」
「剣も持ったことないだろ? 斬魄刀なんて夢のまた夢だな?」
「手前は机の前に座ってりゃいいんだよ! 目障りなんだよ!」
それらの言葉にも怯むことなく、煉は無言で少年たちを見つめていた。落ち着いた表情、――冷たい表情。
やがて開いた唇から、痛烈な一言が漏れた。
「君たちが僻むのは勝手だけれど、それを口にしないでくれるかな。見苦しくて聞くに堪えない」
「な――んだと!」
「本当は言葉を交わすのも厭なんだけれど」
君たちはしてはいけないことをしたんだよ、と静かに――烈しく、煉は呟いた。
右手をゆっくりと前に出す。
見えない何かを掴むように力を込め、煉はそれを呼んだ。
「焔熾」
一瞬で、世界は紅く染まった。
昨日の件で、校庭に行くことに躊躇いを覚えていた煌は、いつもならば必ず外に出ていた昼休みの時間を、教室の自分の席に座ってぼんやりと過ごしていた。
あの辺だったかな、と悔しさを滲ませた視線で校庭の隅に目を遣ったまさにその場所から、
爆音と共に紅い焔が、烈しい勢いで空へと舞い上がった。
まるで世界が爆発したかのようだった。
目の前が突然紅く染まり、激しい爆風が身体を叩く。その風圧を両腕で防ぎながら少年二人が見たものは、焔の渦を右手に絡みつけ真直ぐに立つ煉の姿だった。
煉を愛しむようにその腕に絡みつく烈しい焔、その右手に握られた――刀身も焔で紅く染まった、それは――
「斬魄刀……!? 何でお前が……っ!?」
今まで煉が斬魄刀を手にしていることは見たことがなかった。剣術の授業では、浅打を手にして、剣は苦手なんだと苦笑して最後尾でいつも見学していた。
その煉の手に紛れもない斬魄刀が――しかもそれは、炎熱系でありながらまるで常時開放型のように、圧倒的な霊圧を空へと吹き上げている。
「剣は苦手なんだ」
壮絶に微笑みながら、煉は焔を身に纏う。その熱は煉だけには熱さを伝えないのか、平然と焔に身を委ね、煉は二人の少年を見下ろした。
「制御しきれないんだよ。僕は感情が激しすぎて、その激しさがそのまま斬魄刀に伝わってしまう。――だから剣は苦手だよ。自分の未熟さが露呈するから」
煉――その熱で金属をも溶かす、その言葉を名前に抱く煉の本質はその名の通り焔――烈しく燃え上がる灼熱。
驚愕と恐怖と身を焦がすような焔の熱さに、何も言えずに立ち尽くす二人に煉は一歩近付いた。
囁く声さえ明瞭に聞こえるその距離で煉は言う。
「今後、君たちが煌に害を為す気なら――煌の視界に君たちが入るようなことがあれば、その時は躊躇なく僕は――」
殺すよ?
笑顔で告げられたその言葉に、灼熱の焔を前にして、少年二人は冷水を浴びたように震え上がった。
あの焔は阿散井煉が関係しているらしい、という噂は瞬く間に小等部に広まった。煌の耳にもすぐにそれは入って、慌てて煉の教室に行くと、煉は教員室に居るという。
恐る恐る教員室の扉を開けて中を覗き込むと、すぐに煉が気付いて「煌」と声をかけた。そのまま背後の教師に会釈をして煌の方へと歩いてくる。
「どうしたの?」
「それはわたしが言いたいよ? ……どうしたの、兄さま」
「煌の耳にももう入っちゃってるんだ?」
あーあ、と煉は肩をすくめた。そのまま煌を連れて廊下へと出る。
「新しい鬼道の術を試したら、思ったよりも効果が強くて……」
「鬼道だったの!?」
あんな強力な術は見たことがない。焔が渦になって空へと駆け上がったのだ、まるで龍が空を翔るように。
「すごい……!」
「場所を考えろって先生に怒られちゃったよ」
小さく溜息を吐く兄の、その能力に感嘆する。
昨日から耳に残っていた、厭な上級生の言葉、兄に対する侮辱の言葉は、その瞬間に完全に煌の頭から外へと追いやられた。
例え斬魄刀が使えなくても、兄にはこの素晴らしい能力がある。
誰にも負けない知識と力。――皆に誇れる、煌の自慢の兄だ。
周囲の雑音なんてどうでもいい。
自分さえ知っていればいいことなのだから。
兄の力を、兄の姿を、兄の強さを。
「兄さま――兄さま、だいすき!」
突然廊下で抱きついた妹を慌てることなく受け止めて、煉は苦笑交じりに「如何したの、急に」と頭を撫でた。煉に頭を撫でてもらうこと、それは煌が一番好きなことだった。
「急じゃないよ、いっつもだよ! 煌は兄さまがだいすきだよ!」
「僕も煌が大好きだよ」
微笑んで、煉は煌の頭を撫でる。
それは普段の煉と変わりなく、内に在る焔をまるで感じさせない、穏やかで優しい笑みだった。
煉は能力高すぎて周囲の者にはそれを悟られないようにしています。
大人しく優等生なのはそのように見られた方が本人が楽なのでそうしているだけで、本質は「怒らせたら怖い人」。
煌が大好きで大切で妹以上に思ってますがそれを表に出す事はありません。