「……緋真」
自分の名前を呼ぶ声に、緋真は驚いて顔を上げた。誰にも悟られぬよう……否、誰にも、という言葉は間違っている。その場にいた誰もが緋真に気を留めてはいなかったのだから。故に緋真は、白哉だけに悟られぬよう、細心の注意を持って人の輪から外れ、ひとり誰もいない庭園へ出てきたというのに。
「緋真。……何処へ行く」
白哉の声が近付く。真直ぐに向かって来るその気配に、緋真は諦めて月夜の下に己の姿を曝け出す。
「少し……人に酔いました。申し訳ございません」
場所は瀞霊廷。死神ではない緋真が初めて足を踏み入れた場所。
死神しか住まうことの出来ない瀞霊廷だが、流魂街の住人が全く足を踏み入れることが出来ないというわけではない。
瀞霊廷から流魂街への移動は簡単である―――特に規制はない。けれどその逆は容易ではないが、決して不可能というわけでもない。
勿論、流魂街側から瀞霊廷側へ入るには相応の条件があり、瀞霊廷の住人である死神の案内がなければ入れない。
今日、初めて緋真は瀞霊廷に足を踏み入れた。白哉の迎えに戸惑いながら、その手を預けて瀞霊廷内へ、導かれるままに。
そこは、流魂街とは全く違う世界だった。
初めて見る世界―――そして、白哉の知人の家だという大きな屋敷に通された緋真は、そこは自分の居る世界ではないと痛感した。
大きな家、大きな庭、豪華な家具、数え切れないほどの食べ物―――そして、人。
大前田、という名らしいその貴族の主催する宴には、数多くの人々が集っていた。それは大前田家の長男が、護廷十三隊に入隊したことの祝いの宴らしい。集められた人々は、その長男とほぼ同年代、若い男女しかその広い会場には居なかった。
そしてその中に、白哉と緋真の姿があった―――白哉の用意した緋色の着物に身を包み、白哉に手をひかれ現れた緋真に、周囲の、取り分け女性たちが目を向けた。それはお世辞にも好意的とはいえないきつい視線で―――それだけで緋真は萎縮する。
朽木の名を背負ってきた以上、主催者である大前田家の者に挨拶するわけにも行かず、白哉は緋真に暫く待つよう告げて、ひとり歩き出した。途端、白哉に群がる数多の人々―――名門朽木家の知己を得たいと望む者達が、白哉の周りを取り囲む。それらへ表情を変えずに冷たい視線を向け、白哉は大前田家当主に向かって歩き出す。
その背中を見送って、緋真は小さく息をついた。そして、周りを見渡し俯いた。
美しい着物を身に着けた女性たち。
煌びやかな空気。
自分があまりにもこの場にそぐわず、緋真はそっと壁際に移動した。
白哉さま、と白哉の名を呼ぶ少女達。頬を染め白哉の姿を追い求める女性達。確かにこの広い会場で、白哉以上に美しく気品のある男性は見当たらない。全ての女性の視線を受けながら、白哉は全くそれを気にせずに、ただ淡々と壮年の男性に向かって何かを話している。
自分の住む世界とは違うと―――白哉の住まう世界は自分とはかけ離れていると―――頭ではわかっているつもりだった。けれど、実際にこうして現実を目にすると、自分は何も判っていなかったのだ、と緋真は己を恥じ入った。
何もかもが―――違う。
そして―――逃げるようにその部屋を後にした。
誰も居ない場所へ行きたかった。
そうして逃れた庭で、こんなにすぐに白哉の声を聞くことになるとは―――緋真は思わなかった。
「もう大丈夫です……無作法を致しまして、本当に申し訳ございません」
賓客である白哉が庭に居ては、この家の当主に失礼だろうと、緋真は屋敷に向かって歩き出した。自分の勝手で、白哉の名を落としてはならない。
「もう、良い」
「え……?」
「挨拶は済んだ。行くぞ」
「でも」
「最初からそのつもりだった。挨拶をして帰ると―――顔さえ出せばそれでよい。あとは自由だ」
白哉が緋真の手を取った。そのまま引き寄せられ、え、と息を呑んだ次の瞬間、ふわりと空気が頬を打ち―――気がつけば、辺りに人影も建物もなく、ただ、足元に遠く見える家々の灯がある。
「え……?」
「瞬歩、という」
「瞬歩……?」
「先程からお前は問い直してばかりだな」
小さく笑って、白哉は緋真を地面に下ろした。それまでずっと白哉の腕に抱かれていたことにようやく気付き、緋真の頬は上気する。
「挨拶さえ済ませば、あとは何処で何をしていようと誰にも気付かれぬ。家の者は、私が宴に出席していると思うだろう」
そうして作り出した自由な時間。
「月を―――見たいと、言っていただろう」
「覚えていて―――下さったのですか」
緋真が驚いたように目を見開いた。
それは以前、戯れに口にしたただ一度の言葉。
『白哉さまと……いつか、共に月を見られたら』
白哉が自由になる時間はほんの僅か。
誰にも知られぬよう、細心の注意で愛を育むふたりには、いつも時間が―――圧倒的に足りない。
そして夜は、決して会うことが出来ず―――瀞霊廷と流魂街、距離にしては近く、現実には遥か遠いその場所に、ふたり隔てられ―――だから緋真は一度だけ、無理を承知で呟いた。
「白哉さまといつか共に月を見られたら」
口にしてすぐに後悔し、緋真は「お忘れください」と自らの言葉を打ち消した。
それはまだ、出逢って間もない頃の話。
それを白哉は覚えていた―――緋真は胸が熱くなる。
傍らの白哉に身を寄せると、白哉の腕が緋真を抱きしめる―――包み込むように、やわらかく。
―――ずっといつまでも、触れていたい。
こうして、心を触れ合わせ―――ずっと、いつまでも抱きしめていたい。
こうして、心を触れ合わせ―――ずっと、いつまでも抱きしめられたい。
ずっと―――あなただけを。
それから二人は何も言わず、ただ頭上の月を仰ぎ見る。
瞳に落ちた星は輝きを失わず、誰もいない丘の上で、ふたりは寄り添いいつまでも互いの体温を感じていた。