「ごめんな、乱菊」
それは酷く―――優しい声だった。
後ろから掴んだギンの手首から、懐かしい温度が伝わってくる。
子供の頃、寒い夜、寄り添って眠った布団の中で繋いだ手、その時と同じ暖かさ。
不意に、私からギンに触れたのは何十年ぶりだろうと他愛無い考えが頭に浮かんで、あたしはくだらない事を考えている自分に叱咤する。
こいつは敵だ。
尸魂界を、世界を、仲間を裏切った男。
尸魂界と現世を混乱と戦乱に巻き込もうと画策する、世界の敵。
その敵の手が、こんなに暖かいと、以前と変わらず暖かいと知って、そう、あたしは少し戸惑っただけだ。
右手の斬魄刀を強く握り直す。
こいつは敵だ。
あたしは何度も言い聞かす。
「動かないで」
首筋に斬魄刀、銀の刃を首に沿わせる。
「少しでも動いたら、遠慮なく斬るわ」
あたしの言葉に、ギンは―――笑った。
その笑みに、あたしの心は平静でいられない。
何処まであんたはあたしを莫迦にすれば気が済むの。
このまま喉に刃先を食い込ませ、こいつの生命を絶ってやろうか。
あたしはそんな誘惑にかられる。
昔から、ずっと遥かな昔から、あたしを無視し続けてきたこの男の生命を絶ってしまおうか。
その想いを反映して、右手の灰猫が唸り声を上げた。
その、仲間の窮状を知ってか―――空の亀裂の隙間から、三条の光の帯が地上に向かって放射され、次の瞬間突然辺りが光に包まれて、あ
たしは思わず―――ギンの手を放してしまった。
ギンの手を、放してしまった。
「残念……もう少し捕まっとっても良かったのに」
こんな状況になっても尚、人を莫迦にした様なその呑気な声。
睨みつけるあたしの耳に、ギンの声が続く。
「乱菊から僕に触れたの久しぶりや。ずっと避けられてたからな、ボク」
その笑顔が少しだけ淋しそうだということに、あたしは―――気付いてしまった。
気付かなければ良かったのに。
「もうずっとせんから、ボクは乱菊に嫌われてるのわかってたし」
嫌っていたのはあんたでしょう。
いつだってあたしの事を莫迦にして。
あたしがただの、何も出来ない莫迦な女だと、いつだって嗤いながら見ていた癖に。
「だから、嫌ってくれてええよ。憎んでくれてええから」
ええ、あんたなんか大嫌い。
そうね、ずっと前からあんたの事は憎んでたと思うわ。
今更あんたに言われなくたって、あんたの事はもう遠い昔から大っ嫌い、あんたのその心を見せない笑顔が大嫌い。
「ずっと憎んでくれたらええんや」
ええ、ずっとずっと憎んでいるわ。
過去も今も未来も、あんたが存在する限り、あんたが消え去ってもずっと、時の流れが続く限り。
「―――そしたら乱菊、ずっとボクの事忘れへんやろ?」
あたしは茫然とギンを見つめた。言葉もなく。息をのみ目を見開いて。あたしは普通の、まるでただの小娘のように、何も言えず何も出来
ずにただギンを見る事しか出来ず……そしてギンは酷く優しく―――泣きたくなる程優しい声で、あたしに言った。
「ごめんな、乱菊」
ギンは天から降る光に包まれていた。それはまるで檻のような、あたしとギンを遮断する天の光。あたしとギンを引き離す眩い壁。
「ギン……っ!」
引き止めようと、引き寄せようと伸ばした手はもう届かず、ギンの身体は空高く登って行く。あたしの目はギンを見つめたまま、ギンもあ
たしの目を見つめたまま。
絡み合う視線はそのままに―――音が消える。
時間の流れも空気の流れも、周りの景色も何もかもが消える。
その、二人きりの世界、手の届かない高みから、ギンははっきりと―――あたしに言った。
―――ずっと乱菊の事が大好きや。
声が。
はっきりと、私だけに、間違いなく。
『 大好き。 』
言えなかった。
認められなかった。
だってあんたはあたしの事なんか何とも想ってなくて。
あたしに何にも言わないで姿を消して、あたしに何にも言わないで勝手にいつもいつもあたしを振り回すだけ振り回して、あたしの言う事
なんか何も聞かないであたしの想いなんて何も気付かないであたしの声なんて聞こうともしないで、あたしの想いは届かなくて、だからあ
たしはあんたの事なんて何とも想ってないと自分を騙してだからあたしはあんたの事はもう何でもないと何時だって切り捨てられると思っ
てだからあたしは―――
『過去も、今も、未来も』
『ずっと』
『―――乱菊の事が』
あたしの想いは届かないと―――。
「いやああああああああああああっ!!!!」
絶叫した。手を、高く小さく消えていくギンに向かって伸ばした。何もかも消えた世界で、誰も見えないこの世界で、全てから隔絶したこ
の世界で、あたしは叫ぶ。必死で手を差し伸べる。消えてしまう、行ってしまう。ギンが、あたしの側から離れてしまう。
行かないで。
あたしを置いていかないで。
独りにしないで。
もう待っているのはいやなの。
あたしも連れて行って。
行かないで―――連れて行って、何処へでも、構わないから。
お願い―――連れて行って。何処までも一緒に。
「ギン――――――……!!」
がくん、と身体が落ちる感覚に我に返った。
あたしは数瞬前と変わらない姿勢のまま、ギンの手を放してしまった姿勢のまま静かに立っていた。
世界は元の色を、空気を取り戻している。
既に空にギンの姿はない―――空は空の姿のまま、何処までも青く透き通ったいつもと変わらぬその姿。
皆が沈痛な表情で空を見上げている。あたしに意識を向けている者は誰もいない。
―――二人だけのあの世界は、そう……全て虚空。
私が叫んだ言葉も、閉ざされた空間の一瞬の、架空の世界に閉ざされたまま。
この世界の他の誰にも聞こえなかっただろう―――いや、もしかしたら誰にも聞こえていなかったのかも、しれない。
ギンの耳にも。
誰の耳にも、届いていないだろう。
そう、あれは幻―――夢。光の残像の隙間、この世の裏側、架空の世界。
時の狭間の世界が見せた幻影。
『 連れて行って―――何処までも。
あんたと一緒なら、
そこが何処でも構わないから。 』