その白い部屋の前で私は大きくひとつ息を吐くと、そっと扉を叩いた。
途端、返ってきた「勝手に入れ!」という怒鳴り声に私は一瞬躊躇したが、思い切って扉に手をかけ、真直ぐにこの病室の相手の顔を見ることが出来なくて、私は俯きながら扉を開いた。
「ルキア?」
予想していた声とは別の、意外な声を聞いて私は顔を上げる。
白い部屋、清潔に整えられた部屋は、大きく開かれた窓から爽やかな風が吹き込んでいる。そのベッドの近く、オレンジ色の髪と赤い髪、白い色彩の中で一際目立つ色を持つ二人が私を驚いたように見ている。
……ここに一護がいるとは思わなかった。
「一護、もう動いて大丈夫なのか?」
どうしよう、という表情を私は浮かべてしまわなかっただろうか。慌ててそう言うと、一護は特に何も気付いた様子もなく、「ああ、どっかの軟弱野郎とは違うからな」と笑った。
「その軟弱野郎ってのは誰の事言ってんだ?」
「お前だお前」
「んだと、今ここできっちり勝負つけてやるぞコラ」
目の前で繰り広げられる口喧嘩……恐らくそれは二人の仲の良さの証。それは私にとっても喜ばしい事だ。だが……。
「恋次に見舞いか?」
一護にそう問われて、私は躊躇った。
今日私が此処へ来たのは、……恋次と話したかったからだ。きちんと礼も言っていない。謝る事もしていない。
そして、……もう一度。
『放さねえぞ』
あの時の言葉の意味を……聞きたかったから。
けれど一護のいる場所で、それを聞く事は躊躇われる。
このまま帰るか……でもそれも不自然すぎる。
恋次は私をじっと見ている。その上半身に巻かれた包帯に、あの時の血塗れの恋次の姿が思い出されて私は俯いた。
酷い傷を負わせた―――私の所為で。
「すまなかった」
胸が痛い。
私の所為で、恋次は命を落とす所だったのだ―――あの男に私を渡せば、こんな傷を負う事は無かったのに。
「私の所為で、お前に―――お前達に、こんな怪我を……本当に、どう詫びていいのか……すまない。本当にすまない……」
頭を下げた私の耳に聞こえた返事は、
「莫迦か、お前ぇは」
という、心底呆れたような声だった。
「俺が怪我したのは誰の所為でもなくて俺自身の力が足りなかった所為だし、大体お前何か勘違いしてねーか?別に俺はお前を助けになんか行ってねーぞ。一護の野郎と決着をつけに双極に行ったら、こいつがお前を放り投げてくるもんだから、仕方なく受け止めてよ、それからなし崩し的にお前と一緒にいただけでだな……」
恋次の言葉を呆然と聞く。
仕方なく?
なし崩し?
俯いた顔を上げると、そこには意地の悪さが滲み出ている笑顔の恋次がいた。
「ん?何だお前、もしかして自惚れてねーか?俺が全てを投げ打ってお前を助けに行ったとかよ?」
かああ、と頬に血が上った。
「だ、誰が自惚れてるか、莫迦者!」
そう怒鳴りつける私に向かって、恋次は調子に乗って言葉を続ける。
「そおかあ?全部自分の責任、みてーに思ってるって事はよ、怪我人全てがお前を助けるために命掛けたって思ってんだろ?私は皆に愛されるお姫様よーとか思ってんだろ、うわ、すげえ自惚れ!最悪!自意識過剰!世界中の男は自分に惚れる、とか思って……」
聞いていられなくて、気付いた時には手が出ていた。
ぱあん、と甲高い音。
吃驚したような恋次の顔。
「黙れ、この莫迦!」と叫ぶと、「何しやがる、手前!」と怒鳴られた。
……自惚れ。自意識過剰。
そうか、そういう事か。
全ては私の早合点。そうであって欲しいという私の浅はかな思い違い。浅ましい思いから生じた勘違い。
……恋次には何の特別な思いはない。ただの成り行き、それだけの事。
悲しみは私の中で、やり切れない怒りに変わる。吐き出す場所も見つからず、私は目の前の男に八つ当たりすることしか出来ず……それこそ最低な行為だと言うのに。他人の心が自分の思う通りに行かなかったからといって、怒りをぶつけるなんて最低だ。けれど、私の口からは止めようも無く、酷い言葉が恋次に向かって吐き出される。
「お前はずっと入院してろ、莫迦!もうお前なんか知るか、二度と来ないからな!いやもう二度とお前なんかに会うもんか!莫迦阿呆間抜け変態面白眉毛!」
そうして踵を返すと、私は扉を乱暴に開いて恋次の元から―――恋次の視線から逃げ出した。
涙が零れないよう、唇を噛み締めて、声を出さないようにするのが精一杯だった。
中央救護室から外へ出るには、広い庭を通る。
その道を、私は前を見据えて歩いた。一刻も早くこの場から離れたくて足が速くなる。
病室が遠ざかる。それと共に恋次からも遠ざかる。
私は謝りたかったのに。
礼を言いたかったのに。
そして、出来ればあの時の言葉を―――もう一度聞きたかった。
「莫迦だな、私は」
自嘲気味に笑った。
二度と逢わない、と意地を張ってしまった。
本当は解っている。
恋次が、私を助けに来てくれたことを。
病室で、恋次が意識の無い時に、花太郎と、理吉という少年に聞いた。兄様の病室で聞いた。一護の元で聞いた。
恋次が、誰よりも先に―――兄様を、六番隊を、中央四十六室の決定を、全てを―――背き、捨て、無視し、私を、私だけを選び助けに来てくれたことを。
「それだけで充分ではないか」
それ以上望むのは我儘だ。
既に恋次は私を護ってくれたのだから。
それがただの幼馴染を助けるための事だとしても、それで充分だ。
恋次らしい―――昔の家族を助けるために命を掛ける……義理堅いというか、人情深いというか。
「待てって言ってんだろーが!」
突然腕を掴まれて私は驚いた。振り返ると、不機嫌そうな顔の、
「……恋次」
「無視すんな手前」
私を掴む腕が、利き手じゃない左手な事に気がついて、私は恋次を睨みつけた。
「医者に動くなって言われてるのに動くな、莫迦!」
「お前がさっさと帰るからだろう、阿呆!」
「お前が私を侮辱するからだ、大体私はもう二度とお前に会わないって決めたんだからな、私の前に出てくるな、戯けが!」
「本っ当に可愛くねえな、お前は!」
「ふん、そんなの昔から思っている癖に一々口に出すな!」
どうして、恋次と話す時はこんな風に喧嘩になってしまうのだろう。
もっと素直になりたいのに。
もっと可愛くありたいのに。
口から出るのは、喧嘩を売っているような言葉ばかりだ。
「いいから早く病室へ帰れ!私はもう此処へは来ないから気兼ねなく休め。なんならずっと入院していろ、その方がお前の姿が見えなくて清々するからな!」
「お前なあ、それが怪我人に言う台詞か!」
「ああ、悪かったな、お前は尸魂界を救った功労者だ、こんなことを言っては申し訳ないな!こんな可愛げの無い女を助けるためじゃなく、何の価値も無い女を助ける為じゃなく、尸魂界と現世を救う為に戦った勇者だ!私ひとりのうのうと、何も戦わず、何も犠牲にせず、何も負わず何も失わず何も頑張らず本当に申し訳なく思っているよ、阿散井恋次殿!そんな素晴らしいお方が、私如き、生きている事すら無意味な女に触れてはなりません、手を離してくださいませんか、副隊長殿!」
思いっきり憎たらしくそう恋次に言うと、恋次は掴んでいた私の腕を放した。
つきん、と胸が痛む。
本当に私は、恋次を傷つけてばかりだ。
振り切るように恋次に背を向け、外へ向かって歩き出す。
「……お前は頑張ったよ」
不意にそう言われて、私は息を呑んだ。思わず振り返る。
「…………何を言っている」
「ひとりでよく頑張ったな」
びくん、と身体が震えた。
……どうして。
どうしてそんな事を言うのだろう。
そんな瞳で、……私を見るから。
浅はかな私は……。
「……私は何もしていない。私はただ護られただけだ。私ひとり怪我も負わず、傷も負わず―――周りの全てを傷つけて、でも私ひとり傷付かず……」
「傷付いてるじゃねーか。誰より傷付いてるくせに平気な顔してるんじゃねえ。ひとりで抱え込むなって言っただろーが」
「―――なんで、お前はそんな事を言うんだ。私のことなんて何とも想ってない癖に……。放っておいてくれ、私は―――ひとりで大丈夫だ」
お前がいないなら―――独りでいい。
今まで通り、ひとりで生きていく。
だからこれ以上、期待させるような事は言わないでくれ。
「ひとりで大丈夫な奴なんかいねえよ」
「煩い、私は大丈夫だ!今までだってこれからだって、ずっと独りで生きてきたしずっと独りで生きて行く!私は……っ」
言葉の途中で、力任せに引き寄せられた。私の頬に、恋次の胸に巻かれた白い包帯の乾いた感触がある。
包帯の下、傷付いた身体。
どれが傷、とも解らない程の、ずたずたに切り裂かれていた身体。流れ出た赤い色、生命の水。
「放せ……っ!」
「放さねえ」
左手だけでなく、右手も使って、恋次は私を―――抱きしめていた。
「放したら、また何処か行っちまうだろーが」
いつもの憎々しげな声じゃなく、恋次は言う。
―――震えるような弱さを見せた声で、恋次は、言う。
「……私が居ない方が良いのだろう、お前は」
「そんな訳があるか、莫迦野郎」
小さく、耳元で恋次の声がする。
ずっと取り戻したかった、と。
小さな、本当に小さな声で。
けれど、私を包み込む腕の力は大きく、強く。
この腕の中に帰ってきてほしかった、と、かすれた声で恋次は言った。
風が吹いた。
あの頃と同じ風。
青い空と白い雲と、眩しい太陽と―――傍らに、愛しい人。
震える自分の身体を隠すように、恋次は私の身体を強く抱きしめる―――強く、強く。傷すら忘れて、痛みすら忘れて。
その風に身を任せ、私は震える想いを込めて―――恋次の背中に回した手に力を込めて、流れる涙を隠さずに、恋次の胸に顔を埋める。
「……帰ってきていいのか」
「さっさと帰って来い」
満たされて、嬉しくて、幸せで―――
すう、と小さく息を吸い、意地悪で強情で意地っ張りで莫迦で阿呆で変な眉毛の男に、私は数十年もの間待たせていた言葉を告げる。
「ただいま、恋次」
「……寄り道しすぎだ、この莫迦」
返ってきた言葉は、やはり恋次らしく暖かさの欠片も無かったけれど。
それは紛れもなく、例えようもなく幸せな―――暖かい、心を満たす、時を戻す―――言葉だった。
こんにちは、司城です!裏の更新ばかり続いてましたが、ようやく表!ちゅーすら無い!(笑)
そして本当は拍手お礼SSに乗せるつもりが、折角長くなったので表に昇格。と同時にお題「素直じゃないな」と「頑張ったね」にもリンク。すみません、新たにお題のネタ考えるの大変なんだもん!貧乏性な私(笑)
甘く書けてればいいんですけど…如何なものでしょうか。
しかし、きっと目撃者は他にも多いと思う。兄様とか見てたり。怒り心頭って感じで。「ききき貴様―――っ!!」と窓から飛び降りそうな勢いで。
2005.6.12 司城さくら