いつもならば、必ず先に来て待っている筈のその姿がない。
 ぽつりぽつりと在る木立の間を歩いてみても、居る筈の少女の姿はなく、僅かに焦燥に駆られて名前を呼ぶ。
「緋真」
 答えはすぐにあった。
 予想もしていなかった方角から。
「……何をしている」
 言葉を発するのに一瞬の間があったのは、白哉が絶句していた事に他ならない。
「待っている間に上を見上げたら、ひとつ林檎の実が生っていたので……白哉さまに差し上げようと思いました」
 頭上の枝に腰掛けながら、楽しそうに緋真は答える。
「危ないから下りろ」
「はい、今参ります」
 そう言いながら、緋真は枝の先の林檎に手を伸ばした。精一杯伸ばした手の先が、赤い果実に触れた途端。
 ばきっという生木の裂ける音がして、頭上の緋真のバランスが崩れた。
 ざざざ、という音と共に、緋真の身体は重力のままに落下する。次に来るべき衝撃を覚悟して、思わず目を瞑った緋真の身体は、しっかりと受け止められていた。
 そっと目を開けると、間近にいつもと変わらない白哉の秀麗な顔が、いつもと違う表情を浮かべている。
 驚き、蒼ざめた顔。
 雪のように舞い散る緑の葉の中で、ふたりは暫く呆然と見詰め合った。
「ありがとうございます……」
「大丈夫か」
「はい、でも……死んでしまうかと思いました」
「それは私の言葉だ……あまり私を驚かさないでくれ。……緋真?」
 溜息混じりに呟いた白哉のその腕の中で、緋真は笑っていた。訝しげに問う白哉に緋真は、
「白哉さまも驚いた顔をなさるのですね」
 いつも静かでいらっしゃるから、驚く事はないのかと思っておりました、と緋真はくすくすと笑う。
「当たり前だ」
「申し訳ございません、つい……初めて見る白哉さまのお顔が嬉しくて」
 緋真の言葉にどう反応して良いか解らず、逸らした視線の先に赤い果実があった。落下の時の恐怖故か、緋真は手にしっかりと握り締めている。
 その白哉の視線に気がついて、緋真は、あ、と声を上げた。受取ろうと伸ばした白哉の手から、林檎を遠ざける。
「私の為に取って来たのだろう」
「いえ、これはもう……」
 林檎を渡そうとしない緋真の両手に自らの手を重ねて、白哉は林檎を口元へと運ぶ。
 包まれた手の暖かさに、頬が上気する緋真の前で、白哉は、かり、と赤い果実に歯を立てる。
「…………」
「ですから、お止めしましたのに……」
 普段、あまり表情を変えることのない白哉の別の表情が見たくて、つい湧き上がった悪戯心。野に生る甘味の全く無い、苦味と酸味だけの野生の果実を口にすれば、見たことのない白哉の表情が見られると思って。
「……でも、あまり変わりませんのね」
「先程以上の驚き等そうは無い」
 あまり心配させるな、と生真面目な顔で諭されて、緋真ははい、と頷いた。
 そして白哉の付けた林檎の跡に、唇をよせて同じ様に歯を立てる。
 あまりの苦さに眉を寄せ、そうして笑い出す緋真の赤い唇に目が吸い寄せられて、白哉は内心の動揺を押し隠して目を逸らす。
 不意に湧き上がったその想い……林檎越しにではなく、直にその紅さに触れたいという想いを振り切るように、白哉は目を瞑った。

 赤い果実……禁断の果実、罪の果実。






白哉と緋真の話も書きたいなあ。
兄様、緋真にベタ惚れな話。