からりと開いた教室の扉の向こう、下校時間はとうに過ぎている故に、誰もいないだろうと思っていたのに反して目に入った人影に――しかもそれが国枝鈴だと気が付いて、千鶴はしまった、というような表情を浮かべた。けれどそれは一瞬の事で、千鶴は「こんな時間まで何してんのよ?」と軽く言う。そのまま鈴に背を向けるように鞄を手に取った。
「もう帰らないとヤバイわよ?見廻り、そろそろ来るし」
視線をさりげなく反らし、千鶴は「じゃあね、また明日」と教室を出ようとする。
その腕を掴まれた。
鈴の手が千鶴の顎に触れ、千鶴の顔を自らの方へと向ける。千鶴は抗おうと僅かに力を込めたが、直ぐに諦めたのか鈴のするがままに顔を向ける。
「いやあん、鈴ったら強引なんだから」
「ふざけないで。――血が出てるわよ」
千鶴は仕方なさそうに笑う。「――ま、ちょっとね」
「たつき?」
「ん、まあね。でも痛くはないのよ?ちょっと歯が当たっただけで」
鈴はため息を吐くと、「ちょっと待ってなさい」と命じて廊下へと消える。数十秒後、教室に戻った鈴の手には水に濡れたハンカチがあった。
「ほら」
「…ありがと」
切れた口唇にハンカチを当て冷やす。その千鶴を見ながら、鈴はもう一度ため息を吐いた。
「…まあ、ここ最近のたつきはね…気持ちも解るけれど」
「解ってないのは当事者達だけなのよ。――周りの人間の気持ちなんて」
黒崎と織姫と――たつき。
たつきは同じ程に好きだったのだろう。それは愛だったのかもしれない、友愛だったのかもしれない。バランスの取れた三角形。同じ力で引き合っていたその場のバランス。
それが、崩れた。
織姫を見つめる黒崎の瞳。
黒崎を見上げる織姫の瞳。
それは同じ色を浮かべている――互いを想う、その気持ち。
そしてたつきは――恐らく、同じ程に大事に想う二人に置いていかれたような心持ちで――心が、不安定になったのだろう。
織姫と話す時も、何処かぎこちない。黒崎に至っては、たつきは会話を交わすこともなくなった。
そのたつきの変化を織姫も感じていたようだ。たつきに向ける視線が、物問いた気なものになっている。
だから。
『あんたの態度はみっともないわよ。あんたのヒメに対する想いなんて、これだけの事で壊れちゃうようなもんだったわけ?』
呆れと蔑みを込めて。
『それともあんた、黒崎にヒメを取られて悔しいの?あんた、もしかしてヒメを愛しちゃってた訳?ああ、それとも――』
嘲笑を込めて。
千鶴は言う。
『あんた、もしかして本当は黒崎が好きだったのかしら。ねえ?』
たつきの目が、傷ついたような色を浮かべ――次の瞬間、それは烈しい怒りの色に変わった。
「で、打たれた訳?」
「まあ、そうされても仕方ない事言ったんだし」
「わざとでしょ」
「……たつきは自覚した方がいいのよ、ちゃんと自分の想いに向き合わなくちゃ、黒崎もヒメも失っちゃうわ。たつきが本当に愛していたにしろ、友情だったにしろ…避けていたってしょうがないでしょう」
ハンカチをそっと口唇から離して、千鶴は立ち上がった。もう外は暗い。
「たつきは真直ぐだから…不器用、って言った方がいいかしら。見ていてホント、危なっかしいったら」
くすっと笑って、「もう帰るわ」と鞄を手に歩き出す。
「ハンカチは洗って返すわ。……じゃあね、鈴。また明日」
「ええ、明日」
手を振る千鶴に軽く手を上げて応え、閉じた教室の扉のこちら側、独り残った鈴は呟く。
「本当に不器用なのはあんたの方よ」
やっぱり私は千鶴が好きです。
千鶴と鈴の関係も好き。
鈴の、べたべたしない優しさがかっこいいです。
この二人の関係も好きです。