詩吟神風流藤が丘支部

私の詩吟日記 (31)

 鬼哭啾啾

 いま杜甫の 『兵車行』 を習っている。

「車はリンリンと響き、馬は蕭蕭と嘶く」
 『兵車行』は、辺地に赴く出征兵士の
一群とそれを見送る家族の騒然とした
咸陽橋の光景から始まる。

「行人の弓箭 各々腰に在り
 耶嬢 妻子 走って相い送る
 塵埃見ず 咸陽橋
 衣を牽き 足を頓し 道をさえぎって哭す
 哭声 直ちに上って 雲霄を おかす〜」

 時は750年ごろ、唐の玄宗は楊貴妃に溺れて政治をかえりみず、国境
周辺では異民族との紛争が絶えず、各地で大量の死傷者を出していた。
このため兵力の不足が深刻化し、大規模な徴兵が全土で間断なく続けら
れた。徴兵によって引き裂かれた家族の泣き声が天にまで上がっていく
のを杜甫は見る。

 兵士は訴える。
 ある者は15歳で、元服と同時に北の黄河の守りに狩り出され、40歳に
なってやっと帰ってきたと思ったら、今度は西の屯田兵にされてしまった。
戦地で流された血は海水のようになっているのに、皇帝は未だ戦争をや
めようとしない。 
 田畑は荒れるがまま、然も税金の取立てはますます厳しい。辛抱強い
男は、まるで犬や鶏のように戦場に追い立てられる。こんなことなら男を
生むんではなかった。女なら近隣に嫁にいけるが、男はみんな草葉の蔭
で死んでゆくのみだ。
 そして『兵車行』はこう結ばれる。

 「 君見ずや 青海の頭
   古来 白骨 人の収むるなし
   新鬼は 煩冤 旧鬼は哭す
   天陰 雨湿 声啾啾 」 

 まさに鬼気迫る反戦の詩である。 
杜甫は戦争に巻きこまれて苦しむ一般民衆の姿を直視し、同じ目線で戦争
の悲劇、無残さを34句の詩に凝縮した。

 この詩は杜甫の40歳ころの作といわれている。杜甫は若いときから一貫
して官吏を志し、長安に出てきて必死の仕官活動を続けていた。玄宗にも
再三詩を献じ、任用を懇願していた。しかし『兵車行』では、唐を漢と敢えて
詠み替えてはいるものの、明らかに玄宗の戦争政策にきびしい批判の矢を
放っている。彼はあくまで誠実、真摯な人間だった。
 
 安禄山の乱のあと彼はやっと念願かなって左拾遺に召し抱えられ、長安
の宮廷で仕える身となった。すでに45歳だった。 しかしその喜びも束の間、
彼の生真面目な直言が時の粛宗の逆鱗に触れ、1年余にして華州に左遷
され、その翌年には自ら職を捨てて浪々の身となった。 誠実一路の杜甫
には、宮仕えは所詮向いていなかったのである。
 その後の杜甫の人生は、貧困と飢餓と病いに苦しみながらも、常に透徹
した目で人間性と社会性にみちた詩を作り続け、遂に旅の途中の舟の中
で59歳の生涯を閉じたのだった。
 
 私はこの『兵車行』の詩吟を学んで、わが国にもこんなヒューマニズムに
溢れた芸術性の高い詩がないものかとつくづく思う。
 戦争の惨禍にあうのは常に民衆である。民衆の犠牲には国籍も、民族も
宗教も関係ない。テロの脅威におびえ、世界平和の大切さが益々強く叫ば
れている今日、私たちはこの『兵車行』を大きな声で吟じたいものである。
 詩吟を若い世代に広げ、詩吟人口を増やしていくためには、このような詩
をもっと積極的にとりあげていくことも必要ではないだろうか。

 ところで、『兵車』とは戦闘用の馬車のことである。中国では古来兵車が
戦闘の有力な武器となっており、歩兵を相手に圧倒的な力を発揮していた。
兵車は一乗、二乗とかぞえ、普通、一乗の兵車に3人の兵が乗った。一人
は御者、一人は弓を持った射手、もう一人は矛(ほこ)を持った兵である。
この兵車を2頭か4頭の馬が引き、一乗の兵車に平均30人位の兵士が付
いた。だから兵車が何乗あるかで国の兵力を表わした。大国のことを千乗
の国とか、一天万乗の君とかいう言葉はここから来ている。
 
 兵車を中心とした中国の軍隊も、騎馬編成の北方の匈奴には敵わなか
った。漢の高祖(劉邦)はBC200年、長城を越えて侵入してきた匈奴の
騎馬軍団を32万の兵車軍団で迎え撃ったが大敗を喫した。まさに辺庭の
流血が海水をなしたのである。
 しかし兵車への依存は千年近く経った唐の時代に至るも変わらず、なお
騎馬の前に多くの白骨を積み上げ、”古来征戦幾人か帰る” 辺塞の地は
鬼哭 啾啾として静まることがなかった。

 秦は万里連雲の長城を築いて鉄の固きに比したが、その効果もむなしく、
その後 歴代の王朝は長城の壁をますます高く、その距離をますます長く
することに腐心してきたのである。
                                ( 石田 俊風記 )

兵車行(杜甫故居与杜墓より)