昔噺「銀座・ルパン」


 銀座・ルパンは、1928年(昭和3年)に開店致しました。 開店に当っては、里見ク・泉鏡花・菊池寛・久米正雄といった文豪の方々のご支援を頂きました。 そのお蔭で、永井荷風・直木三十五・武田麟太郎・川端康成・大佛次郎・林芙美子と言った文壇の方々、 藤島武二・藤田嗣治・有島生馬・安井曽太郎・岩田専太郎・東郷青児・岡本太郎と言った画壇の方々や、 古川緑波・小山内薫・宇野重吉・滝沢修などの演劇界の方々も常連でした。
 開店当時は、「カフエー」という、女給のサービスでお酒を飲ませる洋風の酒場スタイルでした。 それを、現在のようなヤチダモのカウンター・バーに改装したのは、1936年(昭和11年)でした。 その時に、控室だった一階も改装してL形のカウンターを作り、営業を始めました。
 やがて戦争が始まり、1941年(昭和16年)には洋風の店名は禁止されて、 「ルパン」は「麺包亭(ぱんてい)」と名乗るようになりました。 1944年(昭和19年)には戦局も苛烈を極め、政令により一斉休業ということになってしまいます。
 1945年(昭和20年)1月に銀座は大空襲を受けます。 ルパンは幸いにも直撃は免れましたが、向かいのビルに爆弾が落ちてその爆風を受け、 入口の扉が飛ばされたり、一階の手洗所の天井が落ちたり、水道管の漏水が起こったり、 ビル全体にいろいろな支障が起こるようになりました。
 戦後は、飲食営業緊急措置令で酒類の販売は出来ず、 1946年(昭和21年)1月にコーヒー店として再開、 1949年(昭和24年)5月に酒類が自由販売になるまでは、 様々な手立てで酒を仕入れて売るという時代が続きました。 その頃は、矢鱈な所で酒を飲むと何を飲まされるか判らないと言う時代でしたが、 ルパンなら安心、と作家や出版関係の方々を中心に、大勢のお客様が帰って来て下さいました。
 その中に織田作之助・坂口安吾・太宰治など無頼派と言われる作家の顔もあり、 また同じ時期に木村伊兵衛・濱谷浩・秋山庄太郎などの写真家の来店も多く、 その中の林忠彦氏が撮影した無頼派三氏の写真は特に有名になりました。 一階の方には地下とは別のお馴染みが出来て、1960年代にはサトウ・サンペイ・ 小松左京・星新一・後藤明生などの方々の顔が見られました。


 また医学界にも多くのファンがいらっしゃいまして、 開店当初から東大病理学教室の緒方知三郎博士を初めとした重鎮の先生方で賑わっておりました。 1960年代には、国・公・私立の医大・医学部の先生方が「ルパン医人会」を作って、 年に一回、借切りで例会を行なって下さるようになりました。 これに段々、医学部以外の先生方や文壇・画壇・演劇界の方々、 更に、三井・三菱を初めとした産業界・経済界の方々も参加されるようになりました。






 1972年(昭和47年)に、爆風で傷み老朽化が進んで水漏れやガス漏れの絶えなかった古いビルを壊して、 新しいビルを建築することとなりました。 ビルは新しくなってもルパンは今まで通りの店にするため、 タモのカウンターを初め総ての内装を丁寧に取り外して保管し、 ビルの躯体が出来た段階で元通りにしました。 1974年(昭和49年)にやっと営業を再開しましたが、 この時から一階をやめて地下だけの店になりました。ドアを開けると階段があるのも、昔の姿そのままです。

高ア雪子と林忠彦氏
 1978年(昭和53年)10月、ルパンは開店50周年を迎え、 里見ク先生を初め50名もの発起人のお声掛りにより、 帝国ホテルで「銀座・ルパン開店50周年を祝う会」が開かれました。 お蔭様で、250余名もの出席者の皆様からお祝いして頂きました。

 そして2003年(平成15年)には、開店75周年のささやかな内祝として記念グラスを作成し、 お客様に差し上げて、思いがけなく大変喜んで頂き、 2008年(平成20年)の開店80周年も、同様の企画で祝いました。

 開店以来の主人・高ア雪子は、1981年(昭和56年)から病で店に出られなくなり、 1995年(平成7年)に88歳で他界致しました。 1951年(昭和26年)以来バーテンダーを務めて来た弟・武も、2008年(平成20年)の開店80周年を目前にして亡くなりました。

 時代と共に、ルパンにお越しになるお客様も段々に変って参りました。 雪子は、ルパンがいつの時代のお客様からも常に愛される店・ 安心して寛いで頂ける店でありたいと願っておりましたが、 その気持がいつの時代にも生きるよう、誠実な営業を心掛けて参ります。