特集記事に登場しました

 「THE NIKKEI MAGAZINE STYLE」 2010年9月17日号 日本経済新聞社


日経マガジンスタイル

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 日本経済新聞の折込として配布されている「THE NIKKEI MAGAZINE STYLE」。 最近のフリーペーパーの例に漏れず、実に内容のある小冊子です。
 9月17日折込の号では「陋巷とモダン」という特集が組まれています。 「陋巷」とは、むさくるしい街を表す言葉で、永井荷風の「ふらんす物語」で使われています。 この特集では、その荷風の足取りを辿って、東京の街の表側の「モダン」と裏側の「陋巷」を探っています。
 登場する街は、浅草・日本橋・小石川・神田・神保町・そして銀座です。 ルパンはこの特集の冒頭と、銀座のページに登場させて頂きました。



荷風

荷風

荷風

 永井荷風は、ルパンとも御縁の深い文士でした。 2005年5月に発売された日本文芸社の雑誌、その名も「荷風!」では、「荷風の銀座を探すッ!」という特集があって、 ルパンと荷風の御縁が次のように紹介されています。



 荷風がフランス料理を食べに通っ た風月堂の近く、みゆき通りを渡っ た斜め向かいの小さな路地を入ると、 薄暗がりに「銀座ルパン」の赤と白 の看板が光る。
 今も有名なこの店の初代主人・高 崎雪子さん (通称お夏さん) は、知 己の保篠龍緒が邦訳したモーリス・ ルブランの「アルセーヌ・ルパン」 からこの店名を頂戴したという。
 平成7年に88歳で亡くなった雪子 さんに代わり、店を支えたのは弟の 高崎武さん。雪子さんの20歳年下、 今年79歳になるという。今も週に二 日、バーテンダーとしてカウンター に立つ。
「旧制女学校に迫っていた姉は、震 災で苦しくなった家計を助けようと、 単身銀座に出て、お金を稼ぐために、 カフェータイガーのドアを叩いたそ うです。当時の若い女性としては、 かなり勇気のいる行動だったでしょ うね」
 その美貌と才気を一目で気に人ら れた雪子さんは、女学校を卒業後す ぐに「カフェータイガー」に勤め、 「お夏」の名でたちまち売れっ子にな り、自分の店を出すことを考え始め たという。そして昭和3年、懇意だ った里見時の勧めで開店。泉鏡花・ 菊池蒐・久米正雄などがこれを支援 した。開店には女給時代に溜めた貯 金を使い、誰にも一切の金銭的授助 を受けなかったことを、お夏さんは 誇りにしていたという。
「夏ちゃんタイガアに在りしころは、 大変な人気だった。あの透明な大き な限と、軽い出っ歯にみんな惹き付 けられてしまったんだからたいした ものだ…」
 安藤更生の『銀座細見』には、在 りし日のお夏さんが熱のこもった筆 で描かれている。今もカウンター奥 に飾られている写真立てには、東郷 育児によるお夏さんのスケッチが優 しく微笑む。くりくりと大きな瞳と、 ぽつちゃりとした顔立ちが印象的な 女性だ。
「写真を置いとくと姉は嫌がりそう だけど、これだったら怒られないか なと思って…」
そういう高崎さんの微笑みもまた、 どこかこの素描に似ている気がした。

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 高崎さんは、便箋3枚にもおよぶ 「お客様リスト」を見せてくれた。几 帳面な字でびつしりとつづられてい るのは、錚々たる顔ぶれの文士たち の名前。永井荷風をはじめ、川端康 成・徳田秋声・壇一雄・井伏鱒二・司 馬遼太郎・大江健三郎・野坂昭如・ 開高健・山本周五郎・高見順…etc。
 開店当時のルパンは、アンティー ク調のボックス席で女給が客に酒を 飲ませる「カフェー」だった。その 後、昭和11年にカウンターバーに改 装。しかし軍靴の響きが銀座にまで 届いた昭和16年に「麺包亭(ぱんて い)」と店名を変更、19年には休業 を余儀なくされた。
 翌20年、銀座は4回にわたって大 きな空襲を受ける。直撃を逃れたル パンは焼け残ったが、終戦直後は飲 食業緊急措置令により酒を売るこ とができず、やむなく21年、珈琲店 として営業を再開した。この時代に 荷風は頻繁にここを訪れたという。
 当時ルパンでは進駐軍横流しの良 質の珈琲を買い入れ、客に飲ませて いた。後に荷風評論家となる東京日 日新開の記者・小門勝二に「ここな ら美味い珈琲が飲める」と連れられ た荷風は、これが気に入り、「家でも 飲みたい」と豆欲しさに通ってきた という。
「この頃は、闇以外で良い珈琲豆な んて手に入りません。それで姉は余 分に豆を買っておいては、荷風先生 にお分けしたそうです。しばらくし て小山さんがうちで『先生、最近の浅 草は面白いらしいですよ』とお話し になった直後から、荷風先生の戦後 の浅草通いが始まったといいます」
 戦争によって中断していた荷風の 浅草通いの発端が、「銀座ルパン」 にあったとは…。

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 昭和24年に酒類の自由販売が解禁 されるまで、巷には、メチルアルコ ールに甘味をつけただけといった粗 悪な酒が流通した。「カストリ」と 呼ばれたこれらの酒を呑み過ぎると、 失明したり、命に関わることもあっ たという。そんな中で、ルパンでは 闇物資の貴重なウイスキーを仕入れ て安く客に飲ませたため、「ルパンの 酒なら安心」と評判になったようだ。 警察官が非番に飲みにきて、手入れ の時期をこっそり教えていったこと もあるとか。
 そんな時代の最中、昭和21年、こ の店で写真家・林忠彦によって撮影 されたのが、有名な“無頼派作家” 三人、織田作之助・坂口安吾・太宰 治の写真だ。
「安吾さんはね、撮るとき姉と話し てるからあんないい顔してるんです よ。太宰さんの写真は、安吾さんと 喋っているところ。だから安吾さん の上着の裾が少し見えてます。撮っ た順番は太宰さんの写真が一番最後 です。前のお二方のポーズに合わせ てあの格好をしたようです」(高崎さ ん)
太宰治が入水自殺を遂げる、一年 半ほど前のことだ。カメラに残った 最後の一枚のフィルムで撮ったのが、 あの有名なショットだったという。
 生前、さまざまな出版社から一代 記を書くよう勧められていたという お夏さん。
 しかし、「いい事ばかりじやなくて 悪い事も書かなきゃならない」から と、書き残すことはしなかった。
「銀座の街は勝手に変わっていった。 私はそれを、カウンターの中から見 続けてきました。昔の建物がどんど んなくなって、路地も変わって、お 客様の世代も飲み方も変わります。 中には、ここで結ばれたご夫婦もお られます」(高崎さん)
 78年の重みとともに、銀座の“怪 盗”はこの街を静かに見守ってきた。